つぶやくには余白が狭すぎる

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雑多な備忘録その2(陰/陽キャラ)

 自分はこの十年間で若者に定着しつつある陰/陽キャラという言葉があまり好きじゃない 血液型だったり星座で性格だとか運勢だとかを決めつけるような乱暴さを感じてしまうし、性格とかいう客観的な指標で評価できないラインで二分しようとするのもなんだか納まりが悪い 特に「陰キャ」という言葉からは差別的なものをとても感じる(これは自分が言うまでもなく「陰キャ」に分類されがちな側なのは影響しているだろうが)
 今から自分がしようとしてるのはよくあるステレオタイプ批判ではあるのだが、人間は二分して分かった気になれるほど簡単ではない(と少なくとも自分は思っている)。たしかに、すべての事を精細に判断するのは面倒だし不可能だから判断材料としてステレオタイプに当てはめるというのは生きていくうえで必要な事ではあると思う。一方で、人となりを判断するという結構重要な行為に「二分でいいや」という雑さはいかがなものかとも思う。もちろん社会生活をするうえで何度も会うわけではない人は一定数いて、少ない材料から類型に当てはめて判断するしかないこともあるのは仕方がない。だが、その類型が「陰キャ」と「陽キャ」の二つしかないのはあまりにも貧弱ではないだろうか。
社会にはそういう貧弱な類型数しか持っていない人がいてどこかに乱暴に割り振られるのは仕方ないことだと割り切るとしても、自分はできるだけ丁寧に分析するように心がけようと思った。いや少なくともできるだけ多くの類型を持つようにはしよう、とは思った。(できれば全ての人に個々に割り振りたいが現実的には不可能)
 そう思ったのは、安直に判断することに慣れてしまうことに対する恐怖もある。ネットを見ていると恐ろしく2元的な構造に囚われていて「敵」か「味方」かしか見ていないようない人が多くもないが少なくない数いる。[数はよく知らないのであいまい](具体的には政治とかコロナとか) 人間がもともとそういうものなのか?あるいは安易な判断を続けてしまった結果そうなるのか? それは分からないが、とにかく、そうなってしまってからでは物事の解像度を上げて見て複雑に考えることはできなくなってしまうようだというのが自分なりに観察した感想だ。
 言いたいことは、人様にどう判断されるかはしょうがないとしても自分は特に人について判断するときはできるだけ丁寧でありたいということだ。

※論理構造が分かりやすいようには心がけたが所詮は散文なので正確性の検証は結構雑。備忘録とつけているのは20年余り生きてきて正直自分が過去に何を考えていたかあまり覚えていなかったため絶対に来る忘却に備えた振り返り用の記録という意味。